20代に急増する「消極的出社拒否症」
よく、年をとると早く目が覚めるなどといいますが、本当はだれでも、眠っていられるのなら、ぬくぬくとしたふとんにくるまっていたいのではないでしょうか。
特に冬場などは、目覚まし時計が鳴り、もう起きなくてはいけないのに、あと5分、10分…と、ぎりぎりまで横になっていた経験を持つ人も多いでしょう。
にもかかわらず、なぜ起きなければならないのかといえば、学校や会社へ行かなければならなかったり、映画やゴルフに行く約束があったりという「理由」があるからです。ところが、最近は、ずるずると寝坊してそのまま学校を休んでしまったり、「もう遅刻だから今日はいいや」と会社を休んでしまう若者が増えています。
それぞれに起きたくない理由が、あるにはあるのです。しかし、それは、外が寒そうだとか、昨日飲み過ぎて体がだるいとか、その日嫌いな科目があるといった、ささいな理由の場合がほとんどです。
また、嫌な上司がいてあいつとは会いたくない、先輩にいじめられる、自分の希望以外の部署に異動させられたなど、会社に行きたくない理由がある場合でも、それをはっきりと自覚しているわけではなく、自分でもよくわからないのだけれども、何となく行きたくないという気分に包まれているケースが増えています。
そのために、もう会社を辞めよう、自分は悪くないんだから正々堂々と闘おうといった主体的な態度に出ることはありません。そこまでの強い気持ちはないのです。嫌なことと闘う気力もなく、とりあえず無意識に逃げてしまっているのでしょう。
黙っていてもバッと目が覚める人ばかりではありません。目覚まし時計で起き、「よし、起きるぞ」と自分を励ましてふとんから出るという場合も多いはずです。
そのとき、楽しいことがあれば起きる意欲は強まり、自分でも自覚できないちょっとしたことが引き金になって、起きる気力がなくなることもあるのです。
無気力は起きる意欲をそぎ落とす
ところが、最近は、嫌なことがあるわけでもないのに、何となく起きられないという人が増えています。会社に行くことに、わざわざ気合いを入れてあたたかいふとんから出るほどの価値を見出していないということです。上司が特別に嫌なわけでもないし、友だちもそこそこいて、行けば行ったで楽しいけれど、わざわざ行くほどの意味を持たない。
かといってほかの仕事をしたいとか、何かやりたいことがあるわけでもない。つまり、人生に生きがいを見出していないのではないでしょうか。仮に、2~3日寝坊して、会社を休むとします。当然上司からは、「何やってるんだ、いいかげんにしなさい」「そんな状態じゃなく、辞めるか、しっかり出てくるかはっきりしなさい」というような電話がかかってくるはずです。上司の立場からいえば、このままじゃ会社を辞めさせられると心配になって出勤してくる、という心積もりがあります。
でも、本人はそういわれると、ますます行きたくなくなるのです。「そんなふうにいわれちゃうんだったら、会社辞めちゃおうかな…」というように、仕事に関しても、生きることに関しても、そんな程度の執着しか持っていません。
これが、若者たちに蔓延しているこわい現象です。これまでずっと、受験戦争の中で闘う小学生、闘う中学生をやってきたのに、会社に入ってもまた同じように闘わなければならないと思うと、途方もなく疲れる気分になるのでしょうか。問題なのは、本人もそこまでは気づいていないことです。
思いあたる嫌なことは特にないわけですから、朝きちんと起きられれば、もっと仕事ができるのに…と思っている人もたくさんいます。みなさん一様に、朝起きられないとか、何だか会社に行く気がしないという理由で訪ねてくるのですが、どこを診ても病気ではないし、薬を使ってもいっこうによくならないのです。
自分の意思で起きられない子供たち
最近は、小学生、中学生にも、朝に弱く、午前中はボーッとしているという子供たちが増えつつあるといいます。夜遅くまで塾に通い、家に帰っても、勉強してから寝るというような毎日を送っている子供も多いらしく、考えてみると、無理のない話のようにも思えます。
母親も、子供が疲れているだろうと気遣い、一度、起こして起きなくとも叱るようなことはしません。何度も根気よく声をかけ、遅刻寸前にしぶしぶ起きても、何とか学校に間に合っているんだからと許してしまうおかあさんも多いと思います。
こうして、小さいころから「朝に弱い」生活が始まるわけです。しかし、ちょつと考えてみてください。先ほど、「させられる人生」「してあげる人生」を送ってきた人は、人生に生きがいを見出していない…という話をしましたが、こうして、朝起きるまで起こしてあげるのが当たり前というところから、子供たちの「させられる人生」「してあげる人生」が始まるのです。今では、戦後の二人っ子世代が親になる時代です。すっかり平和で豊かになった世の中で、その子供たちは、愛情過多による過保護、過干渉で育てられることが多いようです。
そのせいで、自我の形成が遅れ、大人になっても自分で自分を抑制できない人が増えています。そして、朝起きられないなどという程度にとどまらず、過食症や拒食症といった新しい病気すら出現することになりました。
こうして考えていくと、朝、自分の意思で起きるということが、子供たちにとってどれほど重要なことかがおわかりでしょう。いきなり自分で起きなさいというのが無理なら、たとえば、毎朝起こすとき、一度起こしたらもう遅刻しても知らないという態度をとるなど、なぜ起きなければいけないのかを子供たちに考えさせてみるのもよいでしょう。
遅刻したくないとか、友だちを待たせることになるとか、自分の理由が見つかれば、つらくても起きるようになるはずです。それで1,2度失敗して遅刻したところで、自分から起きられるようになることのほうが大切ではないでしょうか。そういう意味では、なぜ朝起きるのか、なぜその高校に入りたいのか、何をするにも、だれかのためにしてあげるとか、だれかにやらされているのではなく、自分の意思でやっているのだという自覚を持たせることが大切だと思います。
本人も気づかない自我の弱さ
「わたしは低血圧だから、朝が苦手」というのは、すっかり決まり文句になっています。しかし、「低血圧だから朝が弱い」という人たちの中には、次のようなグループもあります。それは、自分の眠りとか、もっと眠りたいという気持ちをコントロールするだけの自我の強さを持っていない人たちです。
これも本人は気づいていない場合が多いのです。自分の人生だもの、朝起きようと寝ようと勝手なはずで、自我の話なんて持ち込まないでくれと、少々ムッとする人がいるかもしれません。しかし、この場合は、本当に寝ることが大好きで、自分の意思で寝ていたいから寝るという積極的な人の話ではないのです。本当はもっと余裕を持って家を出たいのに、どうして自分は朝が弱くて、いつもぎりぎりにしか起きられないんだろうと、ぼやいているような人の話です。
たとえば、おかあさんたちは、子供にお弁当を作ってあげなければいけないから、本当は寝ていたいけれども、起きなければならないと思って起きます。このほかにも、大切な会議があるから、自分が行かなければ店がオープンしないからしったと、一種の使命感とか役割意識が、もっと寝ていたいという自分を叱咤激励して起こすわけです。
朝早く日が覚める人が、葛藤もなく起きているかというと、そうではありません。一方、自我が弱い人たちは、遅刻しないように眠いのをがまんして朝起きるとか、おいしいものが食べたいけれど給料日前だからがまんするなどといった、自分の欲望をコントロールする訓練ができていないともいえます。
「もっと寝ていたい」気分と「起きなきやいけない」気分との闘いで、常に、「起きなきやいけない」気分が負けてしまっているということです。「自我が弱い」というと大げさですが、それは自分の中のささいな部分だったりもするのです。だんだんと仕事を覚え、部下もでき、責任感が出て、もっとしっかりしなくちゃと自覚することで、「朝に弱い」のが治ったという人もいるくらいですから。そういえば? と思いあたる人はいないでしょうか。